コートク的生活
 


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Vol.1    マイクロソフト、華麗なる陰謀(2001718)

 

 いよいよ僕もホームページを開くことになってしまった。皆様、ご愛顧のほどを。

 ところで、このページを開設するにあたって、先日僕は、都内某所からマイクロソフトのワードという奇怪なソフトを密かに入手した。「どこから手に入れたんだ」とは聞かないでほしい。僕の命が危なくなる。そのとき、彼女の手は冷たかった。僕の手の中に黄金に輝くCD-ROMが滑り込んできたとき、月はあくまで青く、残酷なまでに北の空に輝きわたっていた。

 それはともかく、この”Word”は面白いソフトだと思う。前に一度書いた原稿を、Wordの中に滑り込ませてみた。すると、奇妙な現象が起こった。

 語句のところどころに、なぜか赤いアンダーラインが施されているのだ。後で調べてみると、このソフトにはオートコレクトというという変な機能があって、人がせっかく書いた文章を勝手に直してくれるという、きわめて便利な性能を備えているようなのだ。

そこで赤線を引かれたところを見ると、ひとつは<ら抜き言葉>、ひとつは<おばはん>という言葉だった。

 どうやらこのソフトは、「ら抜き言葉」が嫌いらしい。実は日本語版のWordは、日本ではなくアメリカで作られているのだが、アメリカ人も「ら抜き言葉」は認めていないらしい。国語審議会の回し者だろうか。また、わざわざ「おばはん」という美しく伝統的な関西弁に赤線チェックを入れるところを見ると、ビル・ゲイツは実は関西人が嫌いなことがわかる。これを書いている最中にも、さっそくビルは「おばはん」に赤線を入れやがった。ちくしょう。

 というわけで、今回の考察により、ビル・ゲイツはわざわざアメリカから、「ら抜き言葉」を認めていないことが判明した。ビルが独占禁止法で摘発されるのは、時間の問題であるだろう。

 

 

Vol.2  戦慄のマサイドリンク(725)

 

「手術台の上のミシンとコウモリ傘との出会い」と言ったのはシュールレアリズムの先駆的詩人ロートレアモンだったと思うが、僕はこの間「東京におけるマサイとの出会い」という変なものに遭遇したので、そのことについてここで静かに報告しておきたいと思う。

 この間、ある人の薦めで、池袋のサンシャインに「アフリカ展」というものを見に行ったところ、会場の一角に燦然と輝いている場所があった。あたりにはアフリカの写真が展示され、お茶、布、Tシャツなどが恥ずかしげもなく売られているのだが、その一角だけが異様にまばゆい光跡を放っているのである。

 僕が近づいて見ると、ミニスカートのおねえさんが、

「どうぞー、試飲中でーす」

とやっていた。

 話をきくとそれは某製薬会社が今度出す新型ドリンクで、「マサイの戦士」という。

 マサイの戦士たちは日夜このドリンクを飲んで修練に励んでいるらしく、あの筋骨たくましいマサイの体もこの飲み物のおかげらしい(といっても、マサイたちはほかにも「牛の生き血」などを飲んで鍛錬に励んでいるはずなのだが、どうだろう)

 みかけは牛乳そのもので、牛乳を少し発酵させたものらしい。僕ももちろん飲ませてもらったけど、牛乳に少し鉄分を混ぜたような、少し苦い味だった。「これは正真正銘の牛乳だよー」と言われて出されると、きっとだまされてマサイドリンクを飲んでしまうような味なのだ。まあ、そんなに変な飲み物でもない。

 この製薬会社は真剣にこのドリンクを日本の中年むけに売り出すつもりらしく、もらったパンフレットには、

「日本人にはマサイが足りない」

という素敵なコピーが踊っていたのであった。

 ああ、これから日本はどうなるのだろうか……マサイよ、僕らをどこに連れて行こうとするのか……。

僕はなんとなく、世界の未来に不安を感じながら、いまも「これからはマサイの時代でーす」と叫びまくるマサイレディの嬌声を背に、その陰湿に燦然と輝くブースを後にしたのであった。

 

 

   VOL.3 選挙に行ってきた(7月30)

 

7月29日になぜか「選挙」というものがあったようなので、僕も無理やり行くことにした。

 ところで、知らなかったが、この「選挙」、あんまり冗談で投票してはいけないらしい。僕は投票した後、掲示板の2ちゃんねるで「僕は半分冗談で『女性党』に入れました」と発言したら、すぐさま嵐のようなレスポンスがあった。

「貴重な一票を冗談に費やすなんて許せない!

「世界では投票にも命がけの国があるんだぞ!

恐ろしいので、これからは「私は真剣に女性党に入れました」と主張しようと思う。

それはともかく、僕はほとんど選挙には行ったことがない。だから選挙事情にはまったく詳しくないのだが、実際に会場に行ってみると面白いものを発見したので、ここでネタにしておきたい。

投票所は小学校の体育館にあった。僕が入っていくと、室内に仰々しく銀色に輝く「投票箱」が置かれ、しかつめらしい顔をした監視係のおっさんが陣取っていたのだが、その一角に不思議な場所があった。

そこには長いテーブルが置かれていて、さっきのおっさんとは打って変わってさわやかな、眼鏡をかけた若者が座っていて、そこに

「相談係」

という麗々しい張り紙が張られていたのだった。

 相談係…こんなところでなにを相談するのだろうか。

「あのー、どこに投票したらいいのでしょうか?」と聞くのだろうか。

「どこかにいい候補者はいませんか?

 また、個人的な相談をしてもいいのだろうか。

「うちの子が全然勉強しなくってねえ」

「亭主に何か言ってくださいよ!

「最近胃腸の調子が…」

「神は存在するのでしょうか?

 

 人間、いろいろな悩みがあるだろう。悩みながら生きていくのだ。生きていく限り、苦悩は尽きない。しかし、この「相談係」は…。

 この人々は、自分たちこそ投票に訪れた人に、こういう訳のわからない「苦痛」を与えていることに気付いていないのだろうか。

 おお、人生とは。選挙とは。

 この世に、真実は存在するのであろうか…。

 

VOL.4  女性のふんどしはどこにいくのか?(86)

 

初めて街で女性の背中を見たのは5年ほど前のことだった。

背中というより、短めのTシャツを着たときにできる、ジーンズやスカートと間のミステリアスな空間のことである。

僕はそのとき、池袋の丸井のあたりを歩いていた。暑い夏の日、ふと横を見ると、道端に若い女性がうずくまっていた。というより、しゃがみこんでいた。

そのとき、あまりにも短い彼女のTシャツがまくれ、そこから白い柔肌が…

衝撃だった。人生、こんなことあっていいのだろうかと思った。

街でこんなものが堂々と鑑賞できるとは…

いや、そんな話をしているんじゃない。僕はそれまで、女性の背中とは、シャツやブラウスの奥深くしまわれている神秘の空間だと考えていたのだ。どうにかしないと、その秘密のベールを勝手にこじ開けることはできない。

それが、街中でこんなにお手軽に鑑賞できるとは…

なんていう素敵な世の中なんだろう。

なんていう進歩的な世界なんだろう、と思った。

そしてはや幾星霜。街では完全に背中柔肌ルックがあふれ、もはや僕もちょっと背中が見えたぐらいで騒がなくなったが、先日出あった女性には驚いた。

僕が新宿駅にあるデパートのエスカレーターに乗ろうとしていたときのこと。

僕の前に、すすっと一人の若い女性が割り込んできたのだが、その人の姿には瞠目した。

腰から「ふんどし」を見せて歩いているのだ。

あの、正常な女性なら低俗な言葉に言う「パンティ」というものになっている部分が、その女性だけ「ふんどし」なのである。

しかもそのふんどしの色は、ご丁寧にもだった。

新宿の街並みに、一本の「ふんどし」が揺れているのだ。

まあ、正確にいえばそれはいわゆる「Tバック」なのだろうけど、そんなものをTシャツの隙間から惜しげもなく見せるその色の黒い女性に、なぜか感動と安寧の気持ちすら覚えたのであった。

おお、ふんどしよ。

おお、愛よ。

彼女は赤いふんどしをふらふらさせながら、欲望渦巻く野望の新宿の中に、静かに消えていった。

 

VOL.5 ハワイでタバコを吸う日本人(815)

 僕はなぜか、アメリカという超メジャーな国に一回だけ行ったことがある。

 といっても、ハワイのビーチ沿いに二、三日滞在しただけだけど。

 ご存知のように、アメリカは禁煙大国である。タバコを吸うなどという極悪非道な犯罪を犯した連中は、とても人間とはみなされない。

 これはハワイでも同じで、現地のハワイ人(?)はほとんどタバコなど吸ってはいない。

 だが、日本人は吸っている。

 日本人は暇にまかせて大量にハワイに出かけているのは有名だが、彼らはついでにタバコという極悪非道なドラッグまで持ち込んでいるのだ。

 まず、喫茶店やレストランでタバコを吸っている奴を見つけたら、それは70%の確率で日本人だと思ってよろしい。

さらに、アメリカ人は、どんなにアホでも、歩きながらタバコを吸うというはしたないことはしない。ハワイで歩きながらタバコを吸っている連中を見かけたら、これは90%以上の確率で日本人だと思っていいのである。

……とまあ、ここまではいいだろう。日本では、路上でタバコを吸うという危険な行為が好きな人々がたくさんいる。彼らはおろかにも、このようなばかばかしい習慣を無理やり外国にまで持ち込んでしまった、というだけのことなのだ。

だが、これから述べる行為だけは僕にはとうてい理解できず、許すこともできず、まったく遠慮呵責もなく攻撃できるという、ステキな犯罪なのである。

それは、ビーチでタバコを吸うという行為なのだ。

僕がワイキキビーチにいたときのこと。砂浜で、波の美しいざわめきや白い砂の輝きを楽しんでいたところ、僕は異臭を嗅いだ。

本能的に横を見ると、日本人の若い男がビーチの上にゴザをひいて座り込み、一人さびしくタバコを吸っているのだ。

僕は再び海のほうに目をやった。波は踊っている。潮は輝いている。

僕はこのような、まるで冗談のように美しい海を目の前にして、タバコが吸えるという神経が信じられなかった。

さらに僕は、男の吸っているタバコの行方が気になった。海パン一枚の軽装で、どう見ても灰皿なんてシャレたものは持っていそうに見えない。いったいどうするのだろう……。

僕の不安をよそに、男は勝手にタバコを吸い終わった。すると、その吸殻をずぶずぶと白い砂浜の中に沈めはじめたのである!

「ちょっと」

とうとう僕は口を出した。

「吸殻は、持って帰ったほうがいいんじゃないですか?

すると男は、

「あ、すみません」

といったまま、呆然としていた。なにしろ、灰皿なんて持っていないからである。

 男は仕方なく、自分の飲みかけの、缶ジュースの缶のなかにタバコを投げ入れて、終わりとした。

 その間にも、波のざわめきは止まらず、海は生き物のように姿を変え、強烈な太陽光線をさまざまな形に反射していた。

 僕は、このような素敵な海を見ながらタバコが吸えるという行為が信じられなかった。

 また、こんなに純白な砂浜を、自分の不潔なタバコで汚染できるという神経も……

 

 ハワイという島は、いまも日本人のFavoriteであり続けている。今年も多くの日本人が夢を見ながら、あの海と砂浜だけは美しい島を訪れている。

 だが、ひとつだけ気になることがある。

ひょっとしてあの男は、いまもワイキキビーチでタバコを吸い続けているのではないか、と。

 

VOL.6   成田空港で人生について考える(8月26日)

 今日、インドネシアに旅立つ友人を見送りに、成田空港まで行ってきた。

 一ヶ月ほど日本に帰ってこない友人が、出国審査の場所へと消えていくのを見届けた後、僕は軽い寂寞を感じながら、意味もなく空港の中をふらふらとさまよい歩いていた。

 ところで、空港は悲しい場所である。

ここには、人生における意味のないもの、すべてが詰まっている。

僕は淋しい足取りでさまよい歩いていると、一軒の本屋にぶち当たった。

なにしろここはなにし負う「成田国際エアポート」である。本屋においてある本もきっと、インターナショナルな顔ぶれだろうと思ったが、全然ちがった。

たしかに海外のガイドブックや英字新聞も置いてあるのだが、店先にうずたかく積まれていたのが、なんと「エロ本」だったのだ。

「デラベッピン」などとならんで、風俗情報、ヤクザ情報満載の実話誌が山と積まれていた。

これは、本国でポルノが解禁されていない、淋しいアジア人が買っていくのだろうか。それとも、誇り高き「ジャパニーズ・ビジネスマン」が機内用のために買っていくのだろうか。

そうか、我らが日本経済を根幹から支えていたのは、エロ本だったのか。

僕らは、エロ本だったのだろうか……

 

VOL.7   トラベルライターズの写真展に行く(9月9日)

 

今日、東京渋谷の東急文化会館で開かれているという、「トラベルライターズ写真展・旅するまなざし」を見に行った。

といっても、実は僕も出展者の一人なのだが。

今日9月9日は初日のはずである。しかも、開場は午前10時のはずだった。

ところが、僕が会場に午後一時ごろ着くと、まだ一枚の写真も貼られていなかった。

ガランとした会場に、トラベルライターズの責任者・樋口さんと出展者の一人・大崎さんが和やかに談笑している。

僕が近づいていくと、樋口さんは呑気そうに手を挙げていった。

「やあ杉岡さん、そろそろ準備を始めようじゃないですか!

 

かくして、会場時間がすぎて、やっと展示準備が始まった。

そう、僕は出展者にして準備者、そして準備が終わった後に鑑賞してしまう鑑賞者という、三つの顔を持つ恐るべき男だったのだ。

準備しながら、ちらちら横目で他人の作品を盗み見る。

出展者は9人ほど、全部で60点くらいだろうか。プロのカメラマンから単なる酔っ払い(誰のことだ?)まで、多種多様である。

テーマはアフリカ・コンゴの緊迫した風景から、キューバ、ラテンアメリカ、東京の月島、東南アジアからウズベク、イラン、インド、日本の風景、マレーシアの仏像まで、およそまとまりがないのだが、だからこそかえって説得力を感じるのだった。

ただ、ひとつだけ感じたことは、どれも旅、あるいは「どこかに行くこと」に対する熱い思いが伝わってくる、ということだった。

実際、そのような情熱がないと、写真など撮れはしない。

「ここから脱する情熱」、これがないと、何も創れないと思うのだ。

僕も、カンボジアの写真5点を引っさげて参加した。カンボジア・ビーチの黄金の夕暮れ、海をバックに歩く女、シェイク屋の娘、地雷で足を吹っ飛ばされた乞食の悲痛なまなざしなどだが、観客の目にはどのように映るのだろうか。

ぜひ一度、会場にお越しください。僕も、開催期間中に、一度は会場に出かけるでしょう。そのとき出会えて、旅と写真の話でも熱くできれば、幸いです。

 

「トラベルライターズ写真展・旅するまなざし」は、9月9日―10月5日に、東京渋谷の東急文化会館6Fで開催中です。入場料は無料。会場の地図等、より詳しい情報は、こちらをクリックしてください!

 

VOL.8 自然は芸術を模倣する〜アメリカ同時テロ多発事件〜

     (9月16日)

その時、僕は仲間たちと酒を飲んでいた。アメリカ同時テロ多発事件(なんか、座りの悪いネーミングだなあ)の第一報は、その飲み仲間からもたらされた。

 突然、外に出ていた男が走って戻ってきて、こう叫んだ。

「ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突っ込んだぞ!どうやら、イスラム原理主義者のテロらしい!

僕は驚いた。と同時に、周囲から祝杯をあげる声が沸き起こった。拍手喝采が始まった。

「よくやった!

「アメリカめ、いままで威張りくさりおって、これで思い知ったか!

 残酷なようだが、このように考える人間も多いのも事実である。それくらい、アメリカという国は、世界中から憎まれているのである。

 年がら年中戦争をくりかえし、世界の富を独占する人々は、弱者や貧者から恨まれたりしても当然であろう。

 さて、そのあと、店を出た僕らは、ある街角で立ち止まった。そこには街頭テレビが掲げられて、NYツィンタワーのテロの様子が、克明に映し出されていたのである。

 超高層のビルに深々と突き刺さっていく旅客機の姿、音をたててツィンタワーが崩壊していく様子……僕らは、あんぐりと口を開けて見ていた。

 一人が言った。

「まるで『ダイ・ハード』みたいですねぇ……」

 

 まるで映画のよう……

 僕らは、この事件が起きてから、このような形容詞を何度聞いただろう。

 ある人は、ふとテレビをつけて、ビル崩壊の様子が映し出されるのを見て、「なにか映画でもやっているのかな」と思ったという。

 ビルに飛行機が突入していく姿を見たアメリカ人は、「とても現実とは思えませんでした。テレビを見ているようでした」と言った。

 僕が購読している、藤井伸二さんのメルマガ「モバイルジャアク日記」にも、こういう記述がある。

 

「するとビルが崩壊する画面が映った。俺は『リーサル・ウエポン3』の参考
映像かなと思って見てたんだが、アナウンサーが「これは現実の映像です!」
と繰り返している。でも、ワールド・トレード・センターはたしか『キングコ
ング』がジェシカ・ラングと一緒によじ登って飛び移ったくらいのツインタワ
ーだぞ。2棟あるはずなんだが1棟もないってことは、ひょっとしてこれは合
成画像?」

 

 自然は芸術を模倣する。

 僕が今回の事件に接して、一番深く思ったのはこういうことである。アメリカの悲劇や、パレスチナ問題とかいったものはすべて除外してしまった上で。

 これはもともと、オスカー・ワイルドの言葉である。彼は、「芸術とは自然を模倣するものだ」という常識の逆を突いて、このようなことを言った。

 たとえば、ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を発表すると、それをまねして自殺する人間が出てくる。フローベールの『ボヴァリー夫人』は、安手の恋愛小説を読みすぎて感化されて、年下の男と駆け落ちして破滅していくという、実際に存在した女性の物語である。

また、ロンドンには、ずっと長いこと霧があった。だが、誰もその存在に気付かなかった。ある画家がロンドンの霧を美しく描いて初めて、人々は霧の存在に気付き、その微妙さを賞賛し始めたのだ、とワイルドは言うのだ。

 オウムが地下鉄サリン事件を起こしたとき、実はずっと前に、地下鉄に毒ガスを撒いてテロを起こすという内容の小説が存在した。

 今回も同様に、ツィンタワーが崩壊する以前に、すでにその状況は、映画の中で実現されていたのである。

 また、何かの事件が起こったとき、僕らは

「以前読んだ本にこんなのがあったな……」

という程度にしか、その事件を描写するすべを知らないのだ。

 

 自然は芸術を模倣する。

 そして僕らも、映画や小説の悲しい虜でしかない。

 僕らは、現実の中で生きていくことはできない。

フィクションの中でしか生きられないのだ。

 なぜなら、この世に起こるすべてのものは、すでに「芸術」の中で完璧に成し遂げられてしまっているのだから。

 

VOL.9   青山正明の死 (9月23日)

人間って、簡単に死ぬものだ。

僕がドラッグ・ライターの青山正明氏の訃報を聞いたとき、まず初めに思ったのが、そう

いうことだった。

 

青山正明さんは、「全部体験!作者が実証済み!」という痺れるコピーの踊る有名なドラッ

グ書『危ない薬』を書き、死体、犯罪、変態、エログロナンセンスの溢れる不気味な季刊

誌『危ない一号』を編集していた、まじめな人はだれも知らないが、まともでない人なら誰でも知っているという、奇怪なライターであった。

僕が2000年に『ゲオルク・トラークル、詩人の誕生』という本を出したとき、これはドラッグ詩人についての本だったので、当然の如く青山さんの名著『危ない薬』を参考にさせてもらった。

僕が感謝の意をこめて著書を送ると、半年ほど経って電話があった。

「立派な業績ではないですか!

青山さんは、柄にもなく、そう誉めてくれた。

そして彼はいった。自分はいま目が悪いのでなかなかこの本を読めないが、きっと読む。そして、その上でどこかで会おう。お互いライター同士、本を書いて大儲けする話でもしようではないか、と。

そう、青山さんは、日本でも数人いるかいないかという目の奇病に罹っていたのだ。

彼は、失明寸前だったのである。

 

だが青山さんは、もはや「書く」ということに、ほとんど興味を失っていたらしい。彼ほどの人なら、ライティングの仕事などいくらでもあったはずなのに、それを断りパン工場でアルバイトしていた。

「いやー、バナナを一気に剥くのが難しいんですよー」

なんて言いながら。

 

目が悪くなるだけではなく、クスリで一度逮捕されているという事実が、彼を追い詰めていた。

実際、国家権力の強大さ、警察の残酷さ、法に背くことの恐ろしさを、彼は分かりすぎるほど分かっていたのだ。

 

青山さんは鬱病に罹っていた。

彼は、家族とうどんを食べたあと、一人天井からロープの掛かっている部屋に入っていって生を止めた。

首吊り自殺だったのだ。

 

人間は、簡単に死ぬものだ。

僕は、ドラッグライター・青山正明の死を前にして、言えることはただそれだけである。

ドラッグすら、彼を救えなかったのか。

ジャンキーには、二つの生き様があると思う。

シド・ビシャスのように完全にクスリに溺れ破滅していくタイプと、バロウズのように笑いながらヘロインをやり、ふてぶてしく生き残り、8090歳まで平然と生きる者と。

どちらがいいのか。どちらがジャンキーとして正しいのか。

僕には分からない。

だが、たった一つだけ気になることがある。

 

青山さんは、はたして僕の本を読んでくれたのだろうか……

 

VOL.10    銀座にたたずむ男(10月5日)

 

 このところ、ちょっと訳あって銀座に行くことが多い。

 銀座には、なぜか宝石店が多いのだが、その中にひとつ面白い店を見つけた。

 

 とにかく、ひとりの男が延々とたたずみ続けているのである。

 

 その店は、銀座の一丁目あたりにある。松島奈々子と反町隆も婚約指輪を買いに来たという、きわめてエグゼクティブな店なそうだが、いかんせん宝石が高すぎるのだろう。あまりにもエグゼクティブすぎて、一番安い石ころでも70万円を下らない。

 それはいいのだが、全然客が来ないのだ。

 もちろん、ここの石は高いので、たとえ月一個売れただけでも十分やっていけるのかもしれないが、悲惨なのは従業員である。

 客が来ないから、やることがないのだ。

 よって、この宝石店のエグゼクティブな玄関には、いつもスーツでバシッと決めた一人の男が、まるで門番のように、やることもなく一日中立ち続けている。

 やることはないのだから、片手間に新聞を読んだり、ゲームボーイで遊んだりしてもいいのかもしれないが、そこがハイ・ソサイェティなお店である。気を抜いてはいけないのである。あくまで、ゴージャスにビシッと突っ立っていなければいけない。来るはずもない客を待ち続けながら。

 

 これは、一種の拷問ではないだろうか。

 聞いたところによると、KGBCIAには恐るべき拷問があるそうだ。

 それは、スパイを椅子に縛りつけ放置し、「かまってあげない」という、非人道的なものだそうだ。

 また、かつて帝政ロシア時代に行われていた拷問を思い出す。

 まず、囚人にスコップを渡す。

 「これで穴を掘れ」

 穴を掘ると、ふたたび命令する。

 「今度は埋めなおせ」

 これを延々と命令すると、囚人はノイローゼになり自殺してしまうそうだ。

人間は、意味のないことをやるのに耐えられないのである。

 また、現在の日本でも、リストラの標的にされたサラリーマンが、仕事を与えられず一日中机の前に座っていることを義務付けられたりする。やられた人間は、とても耐えられなくなって自ら退社を願い出たりするらしい。

 こうなると、銀座の高級宝石店の玄関で一日中たたずみ続ける男も、拷問にかけられた囚人の栄誉を担っていることになる。

 アムネスティに、救援活動を要請しようか……。